熊本ぎょくとう観光ガイド
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4.国指定史跡 西南戦争遺跡  二俣瓜生田官軍砲台跡
■Commentary
ここ二俣瓜生田官軍砲台跡は、政府軍が田原坂に布陣する西郷軍を攻撃するために野戦砲台を築いた場所です。
明治10年1月に始まった西南戦争において、熊本城包囲に苦戦した西郷軍は、政府のある東京へ向かうため、軍勢を熊本県北方面へと進めます。しかし、2月26、27日玉名高瀬付近の戦いに敗北したため、一旦退き、約1万2千の兵をもって、田原坂を中心として西は吉次峠から河内へ。東は山鹿方面の要地に布陣し、政府軍の南下を迎えうつ作戦をとりました。対する政府軍は、全国から送られてくる援軍を待ちながら、総勢1万3千の兵をもって制圧にあたりました。これが日本史上有名な田原坂の戦いです
政府軍は田原坂に布陣する西郷軍に対し、谷を挟んで約1km離れたここ二俣の台地に3月4日から陣地を構築しはじめます。歩兵の攻撃を援護する大砲による攻撃拠点は、ここ瓜生田地区と、ここから南に400m離れた古閑地区、そしてその間に設置された政府軍の本営出張所、三か所に築かれ、大砲8門が設置されたという伝承が残っています。
当時、このような山あいの戦いでは、分解して馬二頭で運ぶことができる四斤山砲が重用されました。
四斤山砲の有効射程距離は約1Kmであり、そのことからも、ここに砲台が築かれた理由がわかります。
平成22年に玉東町教育委員会が行った発掘調査では、大砲の発火に用いられた摩擦管が台地一面から出土し、
大砲の轍と考えられる痕跡が確認されました。轍の方向は現在の田原坂三の坂より南方を向いており、具体的な戦闘の状況が明らかになりました。
政府軍による砲撃は、明治10年3月20日に田原坂が陥落するまでの間続けられたといいます。その日は朝から雨。そののち晴れたという記録があり、
轍の遺構はぬかるみの中行われた田原坂攻略の最後の砲撃の痕跡と考えられます。
■ information
問合せ先
玉東町教育委員会
住 所
玉名郡玉東町二俣1805-4
電話番号
0968-85-3609
定休日
土日祝
料 金
駐車場
URL
https://seinansensou.jp
その他
玉東町中央公民館内、木葉駅横ぷらっとぎょくとうに一部遺物展示有り(開館8:30~17:15)
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